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多岐朦朧

まっちゃんは多岐朦朧(たきもうろう)だからなあ。という言葉をかつて、よく耳にした。
言われたまっちゃんは、新宿5丁目の雑居ビルの地下にある私がアルバイトしていた酒場のチーフで
言った方は谷田貝さんとおっしゃる人物往来社のかつての社長である。
歴史読本という雑誌を出していたこの出版社の名は私でも耳に覚えがあった。

谷田貝さんは毎晩お客さんとして店にいらっしゃって、ディスコタイムに私がピンで踊ると、
持っていた杖を振り回して一緒に踊り狂う面白いおじいちゃんだった。

けれど、他のお客さんたちのこのおじいちゃんへの礼節を持った振る舞いを見ていると、
出版当時は相当の名うての人物だったことが、簡単に見分けられた。

その方がタキモウロウという、その言葉を頭の中で漢字に変換してみると、意味はすぐわかった。

私にとってのまっちゃんは、昼日中から呑んでいるただの酔っぱらいだったけど、その日のお客さんの
カラーを察してBGMを選ぶこと、一緒に仕入れにデパートに行くと食器の見分け方など、
私の知らない横顔を見せながら丁寧に話してくれたことなどが思い出される。

まっちゃんは私が福島でプロジェクトを立ち上げた頃、夜中にカウンターで血を吐いて亡くなった。
私の周辺では、亡くなるには早い若すぎると思う人がよく亡くなった。


話を多岐朦朧に戻すと、その言葉こそ、私に一番ふさわしいと思うのだ。
還暦をとっくに過ぎたこの歳になっても、私の多岐朦朧は一向に色あせず、自分にふさわしいこと、
自分にできることをさがして日夜煩悶が続いている。

ファッションイラストレーションもならった。写真もデジタルなら現像から引き延しまで自分でできた。
フランス語も建築も習った。

子供の頃のは本もたくさん読んだし、文章で評価されることもあった。
編み物も裁縫もやった。

でも、何かをやると、そのことを阻む何かが起きてきて続けられない。

いまいちばん惜しいと思うのは建築で、(なぜか)クリームソーダを飲みながら地形を生かした
段々の公共住宅を製図板(当初はキャドなどなかった)に向かって遠い夢として描いたものの、
妊娠し、山奥へ移住することになって断念した。

その代わり自分が住む家は自分で設計しようと思っていてそれは夫の力で実現したものの
原発事故で住めなくなってしまった。

中学生の頃から決めていたセツモードセミナーへの進学も10年間に及ぶ散々に悲惨な紆余曲折
の末に実現したけれど、過労で倒れ、働きながらの就学は続けられなくなった。


何をやったら楽しめるか、よく考えてごらん。と主治医にも看護師にもカウンセラーにも
友人にも言われるけど。
まさに多岐朦朧。
あれもこれもやりたいけど、やりたくない。もう挫折はしたくなかった。

夕食の片付けの後、慰めに見ていたYouTubeもなんだか虚しい気持ちが積もるようになってきた。

京王プラザホテルに勤めていた時、高層ビルの谷間にある小学校の生徒たちが、一年生から
六年生まで一斉に集まって、体育の授業を受けていたことを思い出す。

全部で10名くらいだったか。都市の空洞化だよ。と上司が言っていた。もう30年以上前のことになる。

写真が見つからないのが残念だけど、プロジェクトの支援に、と慶応大学SFCの院生がわけも
わからないまま戸渡に通ってくる一員になったことにがある。
彼は某大臣の秘書もしており、あの忙しさの中で打ち合わせなどもする時間がなく、移動の車中で
話したことから、彼が新宿五丁目の私がアルバイトしていた店のすぐ近くに住んでいることがわかった。

で、私が出席した東京泊まり込みの慶応の授業の翌日、時間を空けてもらって新宿五丁目の近辺を
一緒に歩いてもらったら丁度地元のお祭りの日で、おかまもおなべも一緒くた。
道路を塞いでのお神輿担ぎの盛況さに、一瞬40年前のその地域のお祭りがフラッシュバックした。

若い人が中心になっいるお祭りを見て、ここには過疎がない。と私は感無量だった。

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写真は1年以上入院していた病室の壁と作業台(個室でした)
いろいろ持ち込んでたものの、結局何もせず、呆然としている私を案じて息子が持ってきた塗り絵を何枚か仕上げた。
それを見た看護師が、ここまで出来るのに、と大変に驚いていたことを写真から思い出した。





by derumaku | 2018-02-28 19:59 | 日々のこと